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成果主義管理の裂け目を衝け    (08.02)
小包統合施策の混乱の原因を一過性のものに押しとどめてはならない

「統合ゆうパック遅配」、このゴシック大文字が朝日トップを飾ったのは7月4日のことだが、その翌日には集配課長がそのコピーを現場に配布して回ったという報告が、ある支店から上がっている。なんの説明もなく配布された朝日7月4日朝刊とのこと。受け取った職員は皆、課長も怒っているのだと、会社上層部に対する無言の抗議ではなかったかと受け取ったという。
  当日、例の「現場の不慣れ」といういい訳がホームぺージに掲載されたのがその課長の背中を押したのではなかったか。

  その他にも、現場職制が職員の眼前で公然と会社を非難する光景がいくつも報告されている。これはこれまでの職場風土からはかなり異質な光景だったとは言えないだろうか。それほど今回の事態は現場の中間職制にまで動揺をもたらしたのではなかったか。
  中間職制が公然と会社に対する不信感を表明していたのでは、現場の士気に関わるだろう。怒りが先走り、余裕をなくした職制がつい本音を漏らしてしまったという構図だ。
  つまり、積もっていたのだ。職制にも。この会社に対する構造的不満と不安が心中に渦巻いていたのである。

無責任体質への不安

普段、職制の仕事はひたすら現場の個人責任を追及することに汲々とさせられている。いつからこんなことになってしまったのか、気がついたら職制の仕事はすべて数字に縛られ、目先の成果のみを求められるようになった。職場全体の業務運行より目先の成果を求められ、かつ現場にもそれを徹底することが第一の職務とされる。
  現場はただでさえ正規・非正規と階層付けられ序列化された個人による個人プレーの職場と化しており、職場全体の業務運行に目を配るなどの配意を、大方の職員から奪ってしまっている。

個人としての職制が大多数の個人としての職員を直接管理する構造になっている。まるでモグラたたきのように、次から次に各個人ごとに管理の網をかけ、賞罰の度合いの数値を設定し、最終成果の数値に一喜一憂する。
  それがどれほど消耗で非効率的な管理の悪循環であるか、実は現場の職制自信が身に染みていたのではないか。いつかこの矛盾は爆発するのではないか。特に優秀な職制でなくとも、その不安は澱(おり)のように心中深く溜まっていたのではなかったか。

現場は高みの見物?

今回の混乱の原因は業務研修やシミュレーションの不備、必要機材の配備ミス、さらに見通しの甘さによるターミナル拠点支店の配置ミス等、いくつものシステム的欠陥、業務計画の甘さ等、その責任は第一に日本郵便の経営陣に帰せられるものではある。
  さらにそれは日本郵便のみならず日通ペリカンの側にも大なり小なり問題があったことも今回報告されている。似たような体質、構造を両社は現場に抱えていたということだ。

経営陣の見通しの甘さは今に始まったことではない。現場はこれまでもただただ唯々諾々として上から降りてくる無理難題をこなしてきたのである。そして今回も現場はこれまた当然のごとく高みの見物を決め込んでいたのである。こうなることはうすうす分かっていながら。中間職制にも現場の職員にも、職場運行全体を俯瞰しながら連帯して責任を持つという感覚を、もはや完璧に剥奪されてしまっていたのだから、高みの見物以外処方はなかったわけだ。

6月16日付けで郵政ユニオン宛に飛び込んできたメールを紹介したい。
  「JPエクスプレス解散はいいけど、社員だけで倍以上になる荷物をさばけるわけねぇだろう(怒)集荷どうすんだ?営業どうすんだ?郵便の配達はどうすんだ?JP労組も郵産労もおたくらも同じか?俺達の代わりはいくらでもいるってか?」
  委託労働者からのものだ。つまり、郵政からは比較的直接管理されることのなかった現場の労働者だけが、まっとうな判断を叩きつけていたということだ。

職場に力強く社会を持ち込もう

労働組合は、それなりの要求書を数次にかけて叩きつけ警鐘を鳴らし続けてはいた。しかし、それは未だ少数派労働組合のそれであり、無責任という名の大海の職場に投げ込んだ小石による小さな波紋しか起こさなかったのだろう。それが無駄だったというわけではない。そこからしか始まらないのだから。小さな波紋が重なって大波を起こすまで石つぶてを投げ続けるしかない。
  ただ、今は、小さな波紋は成果主義という大波にかき消されてしまっているということだ。

目先の成果主義、市場での優勝劣敗のみを物差しとした業務管理が、事業運営が、いかに事業の根幹である現場職場を荒廃させてきたか、事業に対する社会的信頼を掘り崩してきたか、今回の事態が中間職制に至るまで改めていやが応にも再認識させられたはずだ。
  ただし、のど元過ぎれば、というのも、無責任体質にしみこんだ処世術でもある。

のど元を過ぎさせてはならない。この破綻を、せっかく中間職制にまで拡がった動揺の裂け目をさらに引き裂かなければならない。
  個人の個人による個人のための職場から、個人と個人が繋がって社会を創るのだという当たり前のことを、その連帯の文化を、タイムリーに職場に投げ返す必死の努力が問われている。

そのための好機をもう一つ私たちは手にしている。いうまでもなく、非正規社員の正社員化と均等待遇いう課題だ。連帯の文化をこれほど職場に白昼堂々と持ち込める好機は他にはないだろう。 
  さらに連帯の文化は、職場に蔓延する営業競争を嗤うだろう。
  郵便事業は、特に年賀状は、それがそもそも事業基盤確立を目的として上から浸透させた意図的な商品であるとしても、それは長い年月を経て文化として育ってきたものである。社会の中で人々が自主的に育んできた文化であるという一面を過小評価すべきではない。
  一商品として売り込み攻勢をかければ増収増益に利するという、短期的な刹那的な商品ではないことは、これも現場の職員ならば誰でも知っていることだ。知っているからこそ営業施策に対する嫌悪感が職場に蔓延し消耗感が拡るばかりなのだ。
  年賀状に関わらず、人々が社会の中でそれが文化として自主的に受け入れ育てるという意識がないものは、すべて刹那的な消耗品として消費され飽きられるだけである。郵便事業は文化を育てるべきなのだ。
  目先の数字を嗤え。職場に連帯の社会の文化を。

多田野 Dave