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Headline 2011

未曾有の大震災を生きる    (03.22)
1995年阪神大震災経験者からのメッセージ

1995年、阪神大震災で神戸市垂水区の自宅の中は無茶苦茶。冷蔵庫は倒れ、ガラスはほとんどが割れた。余震が恐ろしく、朝日が昇る前に親子5人で車へ避難をした。たまたま車にテレビを付けていたので惨状を画面から知ることができた。報道で、震源地が10キロメートルほど先の淡路島と聞く。住んでいた郵政官舎は6棟あり、傾いたり、ひび割れたりと、半壊から一部損壊の状況だった。我が家が一番被害が少ない建物で、外が見える隙間2~3センチ、長さ30~50センチの壁のひび割れが4本程度、部屋の壁が部分的に崩れた程度の被害のみであった。補強と修復は1年後だった。

当時、職場は神戸市の東灘郵便局でした。しばらくは、交通機関が不通であったので、出勤することはできなかった。地震の翌日から所持していたオフロードバイクで友人知人の安否確認を始めた。走っていると、瓦礫の下に親がいると聞き、掘り出すのを手伝ってほしいと言われ、何人かの遺体を掘り出した。自衛隊は生きているであろう方々を優先するので死亡が確実な場合は後回しになっていた。道路や屋根の上には毛布で包まれた数々の遺体が置かれていた。火事で燃えている家屋を横目に、バイクに乗る自分に違和感を覚えながら、下に埋もれた人がいないことを祈りながら、壊れた家々の瓦礫を踏みながら走り回っていた。水と簡単な食料を買い込みに行っては運ぶ日々が続いた。

避難所にいる方々には、水も食料も毛布、暖房設備も3日目には届き始めたが、避難所に入れずに壊れた自宅やテントで生活していた方々には何も届かない状態が1週間以上続いていた。我が家は、電気と水は1週間以内で復旧した。1週間後には郵便局から出勤命令が届いた。赤バイクでの通勤が認められ、ボテ箱に20リットル入りの容器を3つ入れて、水と共に毎日通勤した。水は、壊れた自宅で暮らす友人、知人に配った。

配達先の多くは壊滅状態。家々の前に避難先が書かれた紙が貼り出されていたので郵便は避難先に届けた。同時に、各避難所に、どこにも避難できずにいる家族がいる等の情報を渡して様子を見て貰いに行ったり、自宅避難者には、どこに行けば食事がある等の情報伝達役もできた。自宅避難者が10日後ぐらいにはお弁当を毎食、避難所に取りに行っている等の話を聞き安心したのを覚えている。

1ヶ月もたった頃、郵便局管理者から避難所への配達をやめろとの指示が行われる。すでに顔なじみにもなり、避難所の各学校の教室に行くと子供たちが集まり、郵便物を受け取りにくる関係ができあがっていた。なのに、転居届が出されていない為、家が無いところには差出人に返送すること、郵便物を誰に渡しているのか分からない状態をこれ以上続けるなとの話。
  沢山の方がいる前で他人の郵便物を受け取るなどあり得ないと言っても聞く耳もたずの対応に終始した為、各避難所を回っては転居届けを出すように勧めて回った。返送の指示が出た後、壊れた家々に郵便物を無理矢理に押し込んできた郵便局員もいた。返送せずとも自宅の様子を見に行った時に持ち帰るだろうとの判断で。なかなか取りに来られずに壊れたポストの前で雨が降って、破れるなどの悲惨な状態の郵便物を見ながら、当局管理者のひどい非人間的な指示を情けなく思い恨んだりもした。

今回の東北地方の津波被害には驚き以上の恐怖を感じた。
  阪神大震災は、神戸では一部火事により全滅した地域もあったが、何から何まで流される映像に自然災害の非情、無情を感じた。被害のあった神戸を含む阪神地域は、東西約30キロ、南北約10キロ程の狭い範囲の被害であったので、救いの手がすぐに届いた。東北地方の被害範囲の広さには驚く。今回の震災の被害全貌が分かるのはまだまだ先のことだと思う。
  また、今回の東日本大震災については、自然災害に加えて、原発の人災がこれ以上に大きくならないことを願いたい。今回のことで私たちが主張してきた原発を人との共存は無理だということがはっきりしたと思う。

私は、神戸の震災後、自宅近くにできた仮設住宅の支援の為に、4月には代表としてボランティアグループを地域に呼びかけて立ち上げた。仮設入居者の要請もあり、100名近くの方々で構成し、4年以上給食支援を続けた。
  被災者の必要とするものは刻々と変化する。当たり前のことであろう。水、薬、食料など生きていくために最低必要なものから、着替え、入浴、自分のスペース、プライバシー空間が欲しい、移動のための手段が必要等々、その時々の要求に応えられるかは難しいが、無理なくできることをすればいいと思う。
  最初は要請に応えられずに被災者の想いを持って行政に掛け合うことが多かった。当事者としては遠慮もあり、なかなか言いにくいことでも第三者、支援者としては言えることも多々あった。

仮設住宅では、被災者の話を聞くことが大事な事だった。ひとり一人の状況は皆違う。それぞれの想いを受け止め共感しあうことで救われる。
  ここで大事なのは否定しないこと、被災者の自分勝手と思うことでも、少なからず気づきながら会話していることも多く、単に気持ちの整理のために、口に出すという行為が必要な場合もあると考えれば、自己解決のお手伝いであって、ただ聞くしかできない側にも値打ちが出てくる。
  ひとり一人の想いを聞きメモをして同じ境遇の方を紹介し、話ができる場所として給食会を提供することを続けた。ひとりぼっちにさせない取り組み。被災者同士の被害意識の共有で、大変な想いをした仲間意識からか皆が昔なじみのように親しくなる手伝いができた。
  月2回の開催、手探り状態でスタートした給食会が、4年目には週3回以上開催して、安否確認を含めた給食(お弁当)の配達、1泊及日帰り旅行の企画運営や、温泉への送り迎え等々、多くの支援活動ができる集団として地域支援のグループへと成長できていた。
  現在は、地域ボランティアに吸収合弁され規模を縮小し、代表を降りた。一構成員として復興住宅支援や高齢者支援等を続けている。

私自身、家族や家や財産をなくした方々との話は辛く重たかったが、将来目標とできる多くの老人に出会えたことが現在の財産となっている。
  東日本大震災の被災者は神戸の比ではない。被災地域からも多くのボランティアが生まれ、助け合いが行われることと思う。被災地以外から息の長い支援をどうやって行っていくのかが大きな課題となることは間違いない。16年が過ぎた阪神大震災、今もまだまだ神戸の街には震災の傷跡が残っている。それは心の傷であったり、あちらこちらに広がる空き地が物語ったりと、形は様々だが確実に存在する。

誰かが言った。「被災者の為に、動ける人は動こう。金を出せる人は、金を出そう。動くことも、金も出すことができない人は、元気を出そう。元気を出して気持ちで支える。何かしようと思う気持ちを忘れない事が、お互いを支え、助け合うんだ」と。そして、共に生きて、感じあえることを伝えあえればこんなすばらしいことはない。

私が住む関西からできることは少ない。往復するにも大変な時間、労力とお金が必要になる。被災者義援金はいくらあっても足りないくらいで必ず必要になるので慌てずにゆっくりと集めたい。今しばらくの間は、必要なのはお金より各種日用品の物資であろう。

まだまだ先のことだが、今後は少しずつでも毎月貯金して復興に頑張る東北に年2回くらい旅行してもいいのではと思う。東北各所、名所は多い。お金を落としに行くのも復興支援のひとつ。足を運び被災者の想いに耳を傾けにいけるような気の長い支援を考えて続けていきたいと思っている。

2011.3.21
元東灘郵便局労働者(現垂水支店集配労働者)
大澤 靖志