トップへ
Headline 2011

【福島現地ルポ】被ばくする郵便労働者 (1)  (12.23)

伝送便11月号(No.392)では「原発被曝、福島からの報告」として特集を組み長文の現地調査レポートを掲載しました。報告はかなりの分量に及びますので、ネット上での紹介は差し控え伝送便本体のみの掲載としましたが、是非ネット上でも紹介して欲しいとの要望が多数ありました。初出掲載時からはかなり時間が経ってしまいましたが、今年の締めくくりという意味でも改めてWeb伝送便上でもご紹介しておきたいと思います。なお報告者は伝送便編集委の池田実です。 (多田野 Dave)

飯館郵便局へ

10月初旬、東北自動車道を北上し福島県に向かった。
  二本松インターチェンジから一般道に下り東へ向かうと車窓には黄金色にかがやく稲穂の海が続く。この二本松地域で収穫された米から国の基準値を上回るセシウムが検出されたことが報道されたばかり。はたしてこの稲穂は何処へいくのだろうか。
  いよいよ原発40キロ圏内に入る。山々は色づき始め、県道沿いにはコスモスや彼岸花が咲き乱れ野鳥が飛び交う。外気はひんやりし吸い込むと森の匂いが心地よい。四季の移ろいは何も変わってないように見える。だが、この空気も、森も、鳥も、花も、そして人も、すべてあの日から変わってしまったのだ。

かつての観光キャンペーン「うつくしま福島」はもう誰も口に出すことができない。この一見のどかに見える山里の風景も、その内部は目に見えない放射能によって破壊され続けていると思うと胸がしめつけられる。
飯館村農産物直売所  車は飯館村に入る。街の様子が一変した。人家はすべて戸が閉められ、ドライブインや野菜販売所など商店の入り口にはチェーンが掛けられている。ニコッと笑う「飯館牛」の大きな看板だけがむなしく建つ。まさに「死の町」としか言いようがない光景だ。
  飯舘郵便局に到着。ポストは封印され、局入口には「計画的避難区域になったため業務を行っておりません」との張り紙が貼られていた。ここは今でも毎時2マイクロシーベルト超の高い線量が計測されている地域である。
  この飯館郵便局、震災直後は業務を停止していたが、3月23日の郵政本社による「安全性が確認された」という指示により他の原発20キロ圏外にある福島県内の支店・配達センターとともに配達・窓口業務を再開していたのだ。そしてちょうど一ヶ月後の4月23日、国の「計画的避難区域」指定により再び閉鎖となる。
  丸一ヶ月間、外務員は毎時50マイクロシーベルト超を計測することもあった飯館の村内で、雨の日も、土埃舞う風の日も郵便を配りつづけたのだ。
飯館郵便局  今回、私はこの飯館郵便局に象徴される原発事故で運命を切り裂かれた福島県内の郵便労働者の実状を追った。

海岸一帯は見渡すかぎりの草原

県道12号線で八木沢峠を越え南相馬市に入る。ここは数日前、「緊急時避難準備地域」が解除された地域で今まで避難していた住民が戻ることができるようになった。そのせいか、飯館村では見かけなかった人が道をあるいており、ラーメン店もコンビニも開いていて客が入って活気があるように感じられる。ただ小学校は再開しておらず、ブルドーザーによる校庭の土の除去作業が行われていた。

「道の駅・南相馬」に到着。駐車場には沖縄県警の車両があり警察官が休憩していた。住民のほか工事関係者と思われる人たちも訪れてけっこう賑わっている。
  海岸に向かう。紺青の太平洋が見えてきた。遠くに高い煙突の建物が見え、第一原発かと一瞬ひやっとしたが、この地に建つ東北電力原町火力発電所だとわかる。ここも震災の影響で建物が炎上し復旧の目途はたっていないという。
放置された自動車  道の脇には津波で破壊されたと思われる乗用車が何台も放置されていた。海岸近くに行くと見渡すかぎりの草原。津波であらゆる建物が流された跡に半年が経ち野草が一面に茂っているのだ。その脇の大量のガレキの山にはトラックが頻繁に通り、運搬してきた大量の木くずや鉄くずを置いていく。
  さらに南下しようとすると「立ち入り禁止」の柵が道を遮る。ここからが原発20キロ圏内の警戒区域なのだろう。海は、波も静かで穏やかだが、その中に棲む魚や貝や海藻もみな汚染されてしまったと思うと悲しい。
  ここから20キロ先に発つ原発の建屋がふと蜃気楼のように見えたような気がした。

被ばくに怯え、家族は号泣した

「配達中、第一原発の建物を見上げると気持ち悪い感じはしていたけど、まさかこんな事になるとは夢にも思わなかった」
  こう語るのは今回事故を起こした福島第一原子力発電所が管内にある大熊集配センターに勤務していた吉岡秀雄さん(仮名)。原発建屋から約5キロの内陸部にある大熊集配センターは郵便局と併せ30人余が働いていた。
  地震当日、郵便局の建物自体は内陸部にあるため津波による被害は受けず直接の人的被害もなかったというが、警戒区域直下にあるため、あの日から郵便局は閉鎖されたままだ。
  吉岡さんは地震当日は非番でいわき市の自宅に娘さんといた。自宅は大丈夫だったが、地震後、水も電話も途絶え不安な一夜を過ごした。当日勤務の同僚はみな命からがら逃げ帰ったという。
  翌12日早朝、半径10キロ以内の住民への避難指示が出されたことを知った吉岡さんは「これは仕事どころじゃない」と出勤をあきらめた。午後、水素爆発が報じられ、友人たちからも「すぐ逃げなさい」とのメールや電話がひんぱんにかかってきた。14日に課長から安否確認の電話がかかってきたが、会話の最中に3号機爆発の速報があり出勤どころの話にはならなかった。
  以降二週間余り会社からの電話は途絶えた。15日に入ると近隣の家も一斉に避難を開始。吉岡さん家族も避難を決意し軽自動車に乗り車中泊覚悟で町を出た。しかし道路が避難民で大渋滞。やむなく自宅に引き返すことに。
  その夜、妻と子供は迫りくる被ばくに怯えて「号泣した」という。

 元同僚女性が殉職

所属するJP労組相双支部では今回の津波で2名が犠牲となった。浪江町の海沿いに建つ請戸郵便局で仕事していた女性社員1名が殉職、もうひとりの男性社員は現在も行方不明のままだ。
  吉岡さんと以前同じ職場で働いたことがあるその30代半ばの女性社員の遺体は局近くで発見された。今もやるせない気持ちがこみあげる。
  その郵便局から500メートルほどしか離れてない請戸小学校では生徒全員が避難して無事だったというのだ。「なぜ郵便局だけが」という無念がぬぐいきれない。
通行止め  もし自分が彼女の立場だったらと今でも思う。防災無線で警報が流れても、現金、切手、個人情報、ATM機器などの締めで持ち場をすぐ離れることができただろうか。当日局長が休みのため急きょ応援派遣されていた行方不明の男性にしても慣れない局でどう動けばいいのか判断しづらい状況ではなかったか。
  配達員もそうだが、緊急災害時の判断は最終的に個人にゆだねられる。「あと10分で締める」「あと一束配れば」という判断が命取りにつながることもじゅうぶんにあるのだ。
  「仕事より命」。放棄と避難は違うという日ごろからの教育と避難マニュアルなどがあればと悔やまれる。

つづく ―被ばくする郵便労働者(2)へ―

被ばくする郵便労働者 (1) (2) (3)